千すじの黒髪 我が愛の与謝野晶子
読了しました。読み始めては途中で本を閉じる、と言う経験をこれまで何度も繰り返して、やっと今回最後まで行き着きました。あとがきにも。
これは与謝野晶子へのラブレターであると田辺先生はお書きです。晶子を書くことで自分を書き、鐵幹を書くことで自分を書く、とも。まさにこれは、与謝野晶子を通して田辺聖子が見える評伝です。特に日常生活の中で物を書く困難、締め切りがあって、こうしてはいられないのに、自分より売れていない鐵幹にそれを悟られてはならない。その時の晶子に田辺聖子はヒタと寄り添います。時代は関係ない。自分がいなければ成り立たない家計であればあるほど、それを表には出せない気持ちの切なさ。
この夫婦の芸術家としての高さを田辺聖子は充分理解し、尊敬してこの作品は描かれました。だからこそ、「あとがき」で佐藤春夫の「晶子曼陀羅」をびしりと否定できたのです。ここが面白い。田辺聖子、カッコいい!です。
鐵幹の渡仏の船上で交わされた会話は、本当にあったことなんでしょうか?
こうあれかし、私はこう思いたいと言う田辺先生の思いが書かせたことではないでしょうか?
フランスから帰国した後の二人を機会があれば書きたいと仰りながら、ついにそれは書かれぬまま、先生は逝かれてしまいました。
「われも雛罌粟きみも雛罌粟」の後の二人、私も読みたかったと思います。
田辺聖子という人は何と毅然とした、そして、優しい人だったか、ページを閉じて尚、私の思いは晶子よりも聖子に傾き、そして、その永遠の不在を思うと涙ぐんでしまうのです。
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